日本語と日本文化


浄瑠璃の成立と発展


浄瑠璃は、今日では文楽一座に細々と命脈をつないでいるのみだが、江戸時代においては、歌舞伎とならんで、民衆芸能の代表格であった。とりわけ、元禄の頃から十八世紀半ばにかけては、歌舞伎をしのぐ人気を誇り、人形芝居のみならず、その伴奏音楽も庶民の間に浸透した。

浄瑠璃が民衆芸として形を整えるのは、慶長の頃だといわれる。浄瑠璃は、もともと語り物の一種で、浄瑠璃御前物語という室町時代の読み物に節をつけていたものが原型であるが、それが操り人形と結びつくことによって、新しい形の芸能として急速に発展するようになったのだった。

浄瑠璃は、中世を彩った芸能の潮流の中から、語り物の伝統と人形遣いの伝統が結びついたところから出発したのである。

語り物は、日本の中世を通じて、この国の民衆芸能のメインストリームを形作っていた。その代表は平家語りであったが、中世も末期になると、説経、曲舞といった新しいものが民衆の大きな支持を得るようになった。これらの語り物は、素材の相違はもとよりであるが、それに従事する集団の相違によっても、互いの個性を主張していたものと思われる。説経は、蝉丸神社を中心に結びついた放浪の乞食僧、曲舞は、各地に土着する下層の芸能民といった具合であった。

芸能に従事する様々な集団の中で、東海道を往来する座頭たちが、東海道矢矧の宿を舞台にした恋物語「浄瑠璃御前」に、節付して語ったのが、浄瑠璃のそもそもの始まりである。十五世紀後半のこととされている。

一方の人形遣いも、日本の芸能のなかでは、古い歴史を有していた。彼らは傀儡子といわれ、かなりの集団を形成しながら、猿楽能や曲舞を人形操りで演じていたと思われる。

十六世紀の半ばごろ、人形遣いのなかから、夷舁(えびすかき)と呼ばれるものが出現した。その名から連想されるとおり、恵比寿信仰に乗じて、祝福性の強い演目を、人形に演じさせていたものであろう。その舞台のさまは、日野資勝の日記元和五年(1619)の条に「手くくつの様なる由也」と記されている。

この夷舁が浄瑠璃の節回しを取り入れて、人形劇を演じるようになったのが、今日いう浄瑠璃の始まりなのである。当時、沖縄から伝わった蛇皮線に改良が加えられ、三味線が生まれていたが、これをとりいれたことにも、成功の大きな理由があったと思われる。

成立した頃の浄瑠璃には、河内や左内といった太夫率いる一座が多く現れ、北野や四条河原で小屋をかけていた。中には女太夫もいたようである。次の時代には、薩摩浄雲や杉山丹後掾といった太夫が江戸で成功する。こうして次第に広がりを見せた浄瑠璃は、17世紀末に、竹本義太夫と近松門左衛門という至高のコンビをえて、全盛期を迎えるに至るのである。


    


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