日本語と日本文化


曽根崎心中天満屋の場面:女が心中を決意するとき


曽根崎心中天満屋の場面は、お初徳兵衛の若いふたりが心中を誓い合う場面であり、この作品の中核をなす部分だ。近松はそれを二つのシーンを通じてドラマティックに盛り上げていく。ひとつは縁の下に身を隠した徳兵衛に、お初が足で合図するシーンであり、もうひとつはふたりが手をとりあって暗闇の中を逃げていくシーンである。

これまでの流れからして、ふたりの間の難儀はもっぱら徳兵衛の都合に基づくものだった。お初の側にはさしせまった事情はないことになっている。だからお初が徳兵衛とともに心中することには必然的な事情がないのではないか、そうも受け取られかねない。

しかしお初の側にも徳兵衛と同様な、心中への切羽詰った動機がある、こう観客に思わせるためにも、このシーンは必要だった。

場面はまず次のような謡から始まる。

謡 「戀風の、
フシ「身に蜆川
地「流れては、其の空背貝現なき、色の闇路を照せとて、
スエテ「夜毎に燈す燈火は、四季の螢よ雨夜の星か。夏も花見る梅田橋。旅の鄙人、地の思ひ人、
小オクリ「心々の譯の道、知るも迷へば知らぬも通ひ、
フシ「新色里と賑はしし。
地色「無慙やな、天滿屋のお初は、内へ歸りても今日の事のみ氣にかかり、
スエテ「酒も飲れず氣も濟ず、
フシ「しく/\泣て居る處へ、
地「隣りの娼や朋輩のちょっと來ては、」

お初は徳兵衛の陥った苦境が心配でしようがない。そこへ当の徳兵衛が編み笠をかぶって現れる。

地「表を見れば夜の編笠徳兵衞、思ひ詫たる忍び姿、ちらと見るより飛立ばかり。走り出んと思へども、おうへには亭主夫婦、上り口に料理人、庭では下女がやくたいの、
フシ「目が繁ければ左もならず。
詞「アヽいかう氣が盡た。
地「門見て來ふとそっと出で、なふこれは如何ぞいの。此方樣の評判いろ/\に聞たゆゑ、其氣遣ひさ/\、狂氣の樣になつて居たはいのうと、笠の内に顏さし入れ、聲を立ずの隱し泣き、
フシ「あはれせつなき涙なり。
地色「男も涙にくれながら、
詞「聞きやる通のたくみなれば、言ふ程おれが非に落る。
地「其内四方八方の、首尾はぐわらりと違ふて來る。最早今宵は過されず。とんと覺悟を極めたと囁けば、内よりも、
色詞「世間に惡い取沙汰ある。初樣内へ入らんせと、
地「聲々に呼入るヲヽ/\あれじや。何も咄されぬ。妾が爲るやうに成らんせと、裲襠の裾に隱し入れ、
オクリ「はふ/\仲戸の沓脱より
フシ「忍ばせて、
地色「縁の下屋にそっと入れ、上り口に腰打懸け、烟草引寄せ吸付て、
フシ「素知らぬ顏して居たりけり。
地色「斯る處へ九平次は、惡口仲間二三人、座頭まじくら
色「どつと來り、

お初は徳兵衛を自分の着物の袖に隠すようにして導くと、縁の下に隠す。するとそこへ九平次がのさばりながらやってくる。お初は縁の下に徳兵衛を隠したまま、九平次の相手をする。

九平次がお初に向かって徳兵衛の間抜け振りをせせら笑うと、縁の下の徳兵衛は歯を食いしばって悔しがる。

地「縁の下には齒を喰しばり、身を慄はして腹の立るを、初は是を知らせじと、足の先にて押沈め、押へ沈めし神妙さ。」

ここからお初の足をただひとつのてがかりにして、ふたりの若い男女の心の対話が始まるのである。

地色「左のみ利根に
色「いはぬもの。
詞「徳樣の御事、幾年馴染心根を、明し明せし中なるが、それは/\いとしぼげに、微塵譯は惡うなし。
地色「頼もし達が身のひしで、瞞されさんしたものなれども、證據なければ理も立たず。此上は徳樣も、死なねばならぬしななるが、死ぬる覺悟が聞たいと、獨語に擬へて、足で問へば打頷き、足首取て咽笛撫で、
フシ「自害をするとぞ知らせける、ヲヽ其筈々々。
詞「何時まで生ても同じ事、
地「死で恥を雪がいではと、いへば九平次
色「ぎょっとして、お初は何を言はるるぞ。何の徳兵衞が死ぬるものぞ。若亦死んだら其後は、おれが懇してやらふ。和女も俺に惚てじやげなといへば、こりや忝なかろはいの。妾と懇さあんすと、此方も殺すが合點か。
地「徳樣に離れて片時も生て
色「居やうか。
詞「其處な九平次のどうずりめ。阿呆口を叩いて人が聞ても不審が立つ。
地「どうで徳樣一所に死ぬる。妾も一所に死ぬるぞやいのと、足にて突けば、縁の下には涙を流し、足を取て押戴き、膝に抱付き焦れ泣き、女も色に包みかね、互ひに物は言ねども、膽と膽とに應へつつ、
フシ「しめり泣にぞ泣居たる。
地色「人知らぬこそ哀れなれ。

この対話が余りにも劇的であるために、観客はお初の心を理解できるのだ。互いに声を出して語り合うことのできぬ男女は、女の足を手がかりに互いの意思を確認しあう。女は自分の男に対する愛を脚の動きによって伝える、男はそんな女への激情を、女の足を押抱くことによって表現する。若い男女はここに、生きた女の脚を仲立ちにして永遠に結ばれるのだ。

と、こういうことができるのだが、それにしてもなぜ、お初はこんな情けない男に命を預ける気になったのか、そんな疑問は残るだろう。

そこそも、この劇の題材となった実際の心中事件では、女のほうは遊女という商品として、他の男に売られることになっていた。一方男のほうは主人の意思によって、他の女と添わされることになっていた。ふたりはそれぞれ異なった運命に縛り付けられ、互いに離れ離れになるように定められていた。そんなふたりが結ばれるのは、この世ではなくあの世でしかない。そんな切羽詰った感情がふたりを心中に駆り立てたのだ。

ところが近松は、その事情を表には出していない。あくまでも困窮した男に女が同情して、ともに心中しようと決心する、そのけなげさを表面に出している。そこに近松としてのこだわりがあったのだといえよう。

心中を決心したふたりは、死に場所を求めてうごめきだす。とりあえずは天満屋を脱出してふたりだけにならねばならない。

ふたりの死の道行は、この天満屋脱出の場面から始まるのである。

地「初は白無垢死扮裝、戀路の闇の黒小袖、上に打かけさし足し、二階の口より差覗けば、男は下屋に顏出し、招き頷き指さして、心に物をいはすれば、梯子の下に下女寢たり。吊行燈の火は明し、如何はせんと案ぜしが、椶櫚箒に扇子を付け、箱梯子の二つ目より、煽ぎ消せども消えかぬる、身も手も伸し
色「はたと消せば、梯子よりどうと落ち、行燈消えて暗がりに、下女はうんと寢返りし、二人は胴を慄はして、
フシ「尋ね廻る危さよ。

語りにあるように、お初はすでに死装束を着ている。死の覚悟ができているのだ。だが天満屋の家の中には、夜中といえども大勢の人がいて、彼らに気づかれずに脱出するのはなかなかの困難だ。観客は息を潜めてふたりが無事脱出できるかを見守る。たとえその先が心中という修羅場であっても、ふたりの願いをかなえさせてやりたい、そんな気持ちになったに違いないのだ。

地「やう/\二人手を取合せ、門口まで密と出、懸鎰外せしが車戸の音訝しく開兼し折から、下女は燧火をはた/\と、打つ音に紛らかし、丁と打ば密と開け、かち/\打てばそろ/\開け、合せ/\て身を縮め、袖と袖とを槇の戸や、虎の尾を踏む心地して、二人續いて
色「突と出で、顏を見合せ、アヽ嬉しと、死に行く身を喜びし、あはれさつらさあさましさ、あとに火打ちの石の火の命の、末こそ
三重「あはれなれ。

こうして天満屋を脱出してふたりきりになったお初と徳兵衛は、心中の舞台を求めて、曽根崎の森へと向かうのである。


    

  
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