日本語と日本文化


曽根崎心中:近松門左衛門の世話浄瑠璃


「曽根崎心中」は、近松門左衛門という浄瑠璃作者にとって一代の転機となった作品であるばかりか、浄瑠璃の歴史、ひいては日本の演劇の歴史においても画期をなす作品である。この作品以後、浄瑠璃の世界には世話物というジャンルが確立されるが、その影響は浄瑠璃を越えて歌舞伎の世界にもおよび、その中から悲劇の日本的な形態が形作られていくのである。

近松門左衛門がこの作品を書いたのは元禄16年(1703)、作者51歳のときである。それ以前に浄瑠璃の世界には竹本義太夫という天才が現れ、浄瑠璃は中世の面影を色濃く残した古浄瑠璃といわれるものからの脱却が進んでいた。

この新しい動きの中から新浄瑠璃と呼ばれるものが育ちつつあったのだが、近松はこの動きの中でも決定的な役割を果たしていた。貞享二年(1685)近松33歳のときに義太夫のために書いた「出世景清」は、その象徴とも言える作品であった。

新浄瑠璃が古浄瑠璃と異なる最大の要素は、純然たる語り物であった浄瑠璃に演劇性を取り込んだことだろう。古浄瑠璃にあっては、太夫による語りが中心で、人形の動きや三味線による伴奏は、その語りを盛り上げる意味しか持たされていなかった。観客は人形の動きよりも、太夫の語る内容に感動していたのである。ところが新浄瑠璃は、人形の動きにも大きな意味を付与することによって、そこにあたかも劇を見ているような感覚をもたらした。

出世景清で近松が試みていたのは、浄瑠璃にこの演劇的な性格を持ち込むことだった。この作品が新浄瑠璃の成立に重要な役割を果たしたとされるのは、そこのところに理由がある。

それでも、新浄瑠璃が一気に古浄瑠璃から脱出して、独自の世界を展開したかというと、そう単純ではない。新浄瑠璃といわれるものの出し物は相変わらず古浄瑠璃の焼き直しが殆どであったし、近松自身も古い物語に題材をとった歴史物ばかりを書いていた。「曽根崎心中」以前に近松が書いた浄瑠璃と歌舞伎の台本は数十点にのぼると考えられているが、そのすべてが歴史物だったのである。

そこへ「曽根崎心中」という世話物が登場した。世話物とは歴史物に対立する概念で、当世の市井の出来事に題材をとったものという意味である。いづれにしても、近松以前にはほとんどなかったジャンルであるから、浄瑠璃はここに全く新しい世界を切り開くにいたったといってよい事態を迎えたのである。

近松はこの浄瑠璃を、実際に起きた心中事件をもとに書いた。その事件とは元禄16年におきたもので、大阪北の新地天満屋の遊女お初と、内本町の醤油問屋平野屋の手代徳兵衛とが恋に陥りながら、徳兵衛が主人の姪との結婚を強要され、お初もまた豊後の客に受けだされることが決まって、この世で添い遂げることのできない悲しみに感極まったふたりが、心中することによって、あの世で結ばれることを願ったというものだった。

この事件は大阪の町人の間でさっそく評判となった。そこに目をつけた竹本義太夫が、それを浄瑠璃に仕立てるように近松に依頼したというのが執筆の動機だったようである。近松は早速執筆にとりかかり、心中が起きてから一ヵ月後には舞台に乗せたのであった。果たしてこの作品は大当たりをとった。そのおかげで経営が傾きかけていた義太夫の一座は、起死回生を図ることができたのである。

この作品を書くにあたって、近松は工夫を凝らしたに違いない。なにせこのような世話物を書くのは初めてのこと。題材の新しさは、作劇法や人物描写にそれまでにない新しさを要求する。

浄瑠璃の伝統的な作劇法は五段構成をとっていた。近松も歴史物についてはこの伝統的な方法を採用していた。この段組は出世景清にも用いられている。

だが新しい世話物に、この伝統的な方法を用いるのは相応しくない。歴史物においては壮大な物語がストーリーの多様性を生み、それが劇にも反映して5段組のような形式を採用させる。(ちなみにシェイクスピア劇の多くも5幕からなっているから、演劇的な形式では5段編成は理由のあることだと思われる。)

ところが世話物は市井におこった事件を描くのであるから、そんなに複雑ではない。しかもそれは筋の複雑な展開を楽しむ歴史物と違って、心中までせざるを得ない状況に追い詰められた男女の悲しい心の中を描くのが眼目だ。そんなところから歴史劇とは違った新しい作劇法を考えねばならない。

近松は後に三段構成という形で世話浄瑠璃の構造を確立していく。それはいって見れば、ひとつの物語を、序破急の形で展開しようとするものだ。五段組に比べれば構造がすっきりする分、劇的効果の高まることが期待された。

この作品にあってはまだそういうふうには到っていない。当初に考え付いたのは、本体部分を書いたあとに道行を添えるといったものだった。本体部分は、徳兵衛がお初に出会って自分が陥った苦境を語る場面と、互いに心中を決意しあう天満屋での場面からなる。道行は死出の旅路の果てに若いふたりが心中するところを歌う。

近松はおそらく義太夫の進めもあって、これに観音めぐりを歌った道行を冒頭に加えた。まったく新しい形式の浄瑠璃が観客に支持されるかどうか不安でもあった近松は、能や説経以来の伝統であった霊社めぐりの道行を加えることで、すこしでも受けがよくなるのを狙ったものらしい。

こうして出来上がった「曽根崎心中」は、日本の芸能上まったく新しいものだった。その新しさの中には、当時勃興しつつあった都市の町人たちの心の琴線に訴えるものがあった。観客の中心を占めたであろう彼ら町人たちは、お初徳兵衛の悲しい運命に、もしかしたら自分もそうなるかも知れぬという、共感のようなものを感じたに違いないのだ。

従来の歴史物の世界とはまったく異なった、しかも自分たちに身近で悲しい世界がそこに展開されていたのである。


    

  
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