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出世景清五段目


出世景清の五段目をどう評価するかは、この作品をどう受け取るかによって、正反対の結果をもたらす。これを景清と彼を取り巻く女性たちとの間で繰り広げられる悲劇の物語と受け取れば、五段目はあらずもがなの付けたしとしか思えない。それに対してこれを、伝統的な浄瑠璃の延長上に捕らえれば、物語を収めるに必要なキリの部分だということになる。

近松門左衛門は何をさておいてもこの作品を浄瑠璃として書いたのであるから、そこにキリを持ってくるのは当然のことだと考えていただろう。しかして浄瑠璃というものは、段ごとに異なった話があってもよく、かえってその方が観客には喜ばれる。近松はそんな考えをもとに、五段目には能の人気曲「景清」を取り入れたのであろう。

能の「景清」は、盲目となって日向の国宮崎の庄で乞食のように暮らしている晩年の景清を描いている。そこに娘の人丸が尋ねていくが、景清は自分の惨めさを恥じて、最初のうちは娘にも身分を明らかにしない。そのうち父娘と認め合った二人は再会を喜び、景清は娘の所望にしたがって、若き日の勇壮な戦いぶりを披露するという趣向のものだ。

近松はこの能の物語を取り入れるに当たってふたつの工夫に迫られた。ひとつは晩年を日向の国で暮らさせるための工夫、二つ目は盲目になった事情を明らかにするための工夫だ。

能では景清は日向の国まで落ち延びてきて乞食になったことになっている。だがこれでは色気がない、そう感じた近松は、景清が頼朝と和解して、日向の国を褒美にもらったことに作り変えた。また目玉のほうは、この目が再び頼朝を見ないですむようにと自分で刳り抜くことにした。その眼で頼朝を見るたびに、景清は条件反射のように頼朝を恨むように仕掛けられていたのだ。

こうして近松は、能「景清」の世界を浄瑠璃作品「出世景清」の中で再現するのである。

まず当然のことながら、景清はいったん頼朝方によって首をはねられる。ところがその首がいつの間にか観音の首に変化して、景清の首はもとのとおり胴体にくっつく。

フシ「よくよく見れば今まで景清の首と見えけるが、忽ち光明赫奕として千手観音の、御首と変じ給ひける

これを眼にした頼朝は痛く感心して、景清を許した上で、日向の国宮崎の庄を与えるのである。

地色「此の上は助け置き、日向の国宮崎の庄をあて行ふと、御懇情の御言葉に御判を添へて給はりける

こうして景清と頼朝は和解した。その和解のしるしに景清は頼朝の所望に応じて、若き日の合戦の様子を語る。能では娘の所望だったものが、ここでは頼朝の所望に変えられているわけだ。

地色「景清辞するに及ばねば袴の裾を高く取り、お前に色代し、
ヲクリ「過ぎし昔を語りける

この先の語りの文句は、「いでその頃は寿永三年」以下、能「景清」のキリの部分をそのまま使っている。当時の民衆の間では、この部分は謡曲のたしなみとして誰でも知っていたことだろうから、観客はそこに古い謡曲と近松の新しい浄瑠璃との混交した醍醐味を発見して、そこに深い味わいを感じたものだと推測されるのである。


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