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出世景清四段目:阿古屋の悲劇


出世景清四段目では、投獄された景清を子供たちとともにたずねた阿古屋の悲劇が語られる。阿古屋は自分の訴人が原因となって、夫景清がひどい目に合わされていると思い込み、夫の前で自分の過ちを悔い、それを夫に許してもらいたいと思ってやってくるのだ。だが仮に許してもらったとしても、それで自分の罪がなくなるとは考えていない。よし許してもらえても、または許してもらえなくても、自分はこの世に生きている資格はないと、思い込んでいるのである。

四段目の悲劇はそんな阿古屋の切羽詰った気持と、阿古屋の裏切りを恨む景清との間に展開する。

その景清は頼朝方の策略に引っかかって、六波羅の牢屋につながれている。そのさまは次のように描写される。

地「七尺ゆたかの景清を二重にとって
色「押し入れ、髪を七把に束ねて七方にこそ吊ったりけれ

景清は大男で無類の強力であるから、念には念をいれて繋がれているのである。そんな景清の前に子どもの弥石弥若を連れた阿古屋がやってきて許しを請う。その詞を景清は受け入れようとしない。阿古屋は「げに御恨はことわりなれども、妾がことをも聞きたまへ」といって、何とか景清に聞いてもらおうと夢中になる、訴人は嫉妬に駆られた一時の気迷いから出たことで、自分の本心からなしたことではなかったと、泣いて口説くのである。

地色「嫉妬は殿御のいとしさゆゑ、女のならひ誰が身の上にも候ぞや、申し訳致す程言ひ落ちにて候へども、今までのよしみには道理一つを聞き分けて、ただ何事も御免有り今生にて今一度、言葉をかけてたび給はばそれを力に自害して、我が身の言ひ訳立て申さんと、
地「地にひれ伏してぞ泣きゐたり

それに対して景清は怒りのおさまることがなく、阿古屋の裏切りを糾弾してやまない。

色「やれ子供よ、父がかやうになったるはな、皆あの母めが悪心にて縄をも母がかけさせ、労にも母が入れけるぞ
地色「邪険の女が胎内より出でたるものと思へば汝らまでが憎いぞえ、父とも思ふな子とも思はじ

だがよくよく考えれば、景清のこの言い分には嘘があると、いわねばならない。なるほど阿古屋が訴人したことは事実だが、景清が牢に閉じ込められた直接の原因は阿古屋にはない。景清は小野の姫を助けようとして、自ら牢に入ったのだ。だからそれは自分自身の決断から出たことで、それを阿古屋のせいにするのはフェアではない。

第一、景清のほうこそ、阿古屋の愛を裏切って小野の姫との間に、いわゆる不倫を犯していたではないか。それを棚上げにして、不倫相手の小野の姫を救うために陥った自分の境遇を、阿古屋のせいにしているわけなのだ。これでは阿古屋は浮かばれまい。

それでも阿古屋は景清を相手に訴え続けるのをやめない。彼女はあくまでも、自分の侵した罪とその因縁とを景清に言い訳することで、自分自身に対しても言い訳をつけたいと思っているのだ。

だがその願いは叶えられずに終った。もとより自害する覚悟で景清に会いにきた阿古屋だが、ついに心の晴れることもなく、子どもらともども心中する決心に追い込まれるのだ。

地「やれ子供よ母が誤りたればかく詫言いたせども、つれなき父御の言葉を聞いたか、親や夫に敵と思はれおぬしらとても生きがひなし、此の上は父親持ったと思ふな母ばかりが子なるぞや、みずからも長らへて未来をかけて情なや、いざ諸共に死出の山にて言訳せよ、
詞「いかに景清どの、わらはが心底
地「是までなりと、弥石を引き寄せ守り刀をずはと抜き、南無阿弥陀仏と刺し通せば弥若驚き声を立て、いやいや我は母さまの子ではなし、父上助け給へやと、牢の格子へ顔を差し入れ差し入れ
色「逃げ歩く、エエ卑怯なりと引き寄すればわっといふて手を合はせ、許してたべこらへてたべ、明日からはおとなしう月代も剃り申さん、灸もすゑませう、さても邪険の母上さまや、助けてたべ父上さまと
スエテ「息をはかりに泣きわめく
地「オオ道理よさりながら、
地「殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ、あれ見よ兄もおとなしう死したれば、おことや母も死なでは父への言訳なし、いとしい者よよう聞けと、すすめ給へば聞き入れてあらそれならば死にませう、父上さらばと言ひすてて、兄が死骸に寄りかかり打ちあふのきし顔を見ていづくに刀を立つべきぞと、阿古屋は眼もくれ手も萎えて
フシ「まろび、臥して嘆きしが、エエ今はかなふまじ必ず前世の約束と思ひ母ばし恨むるな、おっつけ行くぞ南無阿弥陀と心もとを刺し通し、さあ今は恨みを晴らし給へ迎へ給へ御仏と、刀を喉に押し当て兄弟が死骸の上にかっぱと伏し、共に空しくなり給ふ、
フシ「さても是非なき風情なり」

この場面は出世景清という浄瑠璃作品の最大の見せ場語り場だ。光景があまりにも凄惨なので、現代の観客も直視するのに迷うところだろう。

だがその凄惨さは、中世以来の語り物の伝統の中から生まれたものだ。語り物という芸能は、暴力を含めて人間のおぞましさを包み隠さず語ることに最大の存在理由を有していた。人間というものは不条理であるからこそ人間なのであり、したがってまた神仏によってしか救済できないものなのだという信仰が、そこに働いていたと思われるのだ。


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