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女殺油地獄:近松門左衛門の悪漢もの


女殺油地獄は、近松門左衛門の浄瑠璃の中でも極めて異質なものと云える。心中ものとも姦通物とも異なり、この作品ではそれまでの近松の世界を貫通していた義理と人情とが見られない。見られるのは、欲望の赴くままに行動する悪党の、目を背けたくなるような暴力だけだ。

とにかくこの作品には救いというものがない。主人公の与兵衛には、およそ人間らしい感情がなく、自分の欲望を貫徹するために、他人を平気で殺すような輩だ。こんな輩が、近松以前の日本の文芸において取り上げられたことはなかった。ただひとつ、西鶴が本朝二十不幸の中で、不幸物の男たちを話題にしたことがあったが、それは時事的な噂話を面白おかしく仕立てたものであって、この作品にみられるような陰惨さはない。

近松がこの作品を書いたのは享保6年(1721)69歳の時であり、近松としては最後の作品「心中宵庚申」よりひとつ手前の、文字通り最晩年の作品である。その最後に近い作品の中で、近松はそれまで描いたことのなかった、極道ものの非人間的な行為を描いて見せた。そこにはいったいどのような意図が隠されていたのか。

物語の筋は、同年に起きた実際の殺人事件に取材しているといわれる。だがその事件の詳細は現在には伝わっていないから、どこまでが事実で、どこからが近松の創作なのか、よくはわからない。現実の殺人者も、手の付けられぬ極道ものだったのか、本当のことはわからない。近松がそれをかなり自分流儀に造形しなおした可能性もある。

というのも、これほどまでに非人間的な極道を犯して、そのことに聊かの人間的な痛みを感じぬものというのは、現実世界ではなかなか見当たらぬものだ。そのいわばありえぬ反人間性を近松は描いている。そこに近松の創造意欲を見るのは、あながち不当な見方でもあるまい。

ところでこの作品は、浄瑠璃としては成功しなかった。初演後徳川時代を通じて上演されることはなく、浄瑠璃として再演されたのは、実に昭和27年のことであった。だが読本の形では何版かを重ねているので、読み物としては生き続けてきた。芝居としてはあまりにも陰惨だが、読み物としてはありうる話と受け取られてきたのだろう。

明治時代になって、坪内逍遥がこの作品を高く評価したことがあり、それが契機で近代文学史の中によみがえった。坪内の近松解釈を踏まえて、歌舞伎の形で上演されたこともあった。

そんなわけでこの作品は、浄瑠璃としては常軌を逸する芝居になっているが、読み物としては優れたものを含んでいる。与兵衛のような極道ものは、日本人の正義感からはあまりにも逸脱した怪物のような存在だが、世界の文学の潮流の中ではめずらしいものではないし、現実社会をよく当たって見れば、そうした化け物のような人間は、存在しないものでもない。

近松自身も、そうした化け物が人間社会の中に存在することに不思議さを感じ、その気持ちを作品の中で展開する機会をうかがっていたのではないか。そうだからこそ、極道ものが女の親切心に付け込んで無心をし、それを断られると逆恨みをして平然と殺す、そのうえで何食わぬ顔しして生き延びる、そんなメチャクチャな事件があったと聞いて、さっそく作品化に取り掛かったのではないか。

実際事件がおきてから作品化までにあまり時間をかけていない。殺人があったのは享保6年5月4日だが、二か月後の7月15日には竹本座で上演されている。こんなにも早く作品が仕上がったことの背景には、近松が日頃このようなテーマを懐に温めていたことをうかがわせる。

こうしてみると、この作品は、芝居の脚本としてはもとより、優れた読み物として、つまり文学作品として、現代人にも受容されるべき性質を持っているといってよい。

凡庸な歌舞伎作者などとは違って近松がなお現代的であるゆえんは、作品が文学としても成り立ちえている点だといえる。この作品は近松の書いたものの中でも、最も文学的な性質が強いものだということができるのだ。


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