日本語と日本文化


津村節子「流星雨」を読む


津村節子さんの小説「流星雨」を読んだ。戊辰戦争のうち会津で行われた戦争と、戦争の結果敗者である会津の人々がたどった過酷な日々を描いている。先日読んだ「ある明治人の記録:会津人柴五郎の遺書」が、男の子の目から見た会津戦争の悲惨な記録だとしたら、これは女の子の視線に立った戦争被害者の鎮魂歌ともいうべきものだ。

「ある明治人の記録」においても、会津戦争のすさまじい実態が描かれていたが、この小説でも、戦争のすさまじさが良く伝わってくる。読者は、単にフィクションを読んでいるのではなく、実際に起きた出来事の記録として読んでいるような気持ちにもなる。それほど津村さんの筆は迫真性を帯びていた。

小説の主人公は、会津藩士の娘あきだ。会津戦争が始まったとき、あきはまだ15歳の少女だった。あきには、祖父母、両親、二人の兄、そして妹があったが、父と二人の兄は戦争で死んだ。

女たちだけになったあきの家族は何度か自決しようとする。会津藩士の中には、家老の西郷頼母の家のように、女たちがことごとく自決したところが多かった。「ある明治人の記録」を書いた柴五郎の家でも、祖母、母、兄嫁、妹など5人の女たちが自決した。男たちの足手まといになったり、生き延びて辱めを受けることを恐れたのだ。

生き延びた女たちは必死になって逃避行を続ける。敗残兵の家族である彼女たちに、手を差し伸べてくれるものはほとんどいなかった。彼女たちは、それこそ着の身着のままで、半ば飢えながら、しかも厳寒の会津の雪原を逃げ回る。そのうち幸いにも祖父の儀右衛門が生きていたことがわかり、彼女らに合流する。そして戦後処理が一段落すると、会津藩に対して新政府から沙汰があり、陸奥の下北半島に移住することになる。

こうして彼女らの家族は、祖父の儀右衛門を柱にして、みなが寄り添うように下北へ向かって歩いていく。柴五郎の場合には、捕虜として収容されていた東京から船で下北半島に向かったのだったが、会津に残っていた大部分の藩士の家族は徒歩で下北半島に向かったのだ。その数1万数千人だったという。

しかし、この移動の最中祖母のキチが、栄養失調と疲労から死亡した。20日あまりかけてやっとたどりついた下北でも、かれらを待っていたのは厳しい現実だった。粗末な掘っ立て小屋をたてて住み込んだが、この先暮らして行けるあてはないに等しい。そのうち祖父の儀右衛門も栄養失調で死に、あきは、母と妹の三人だけでこの世に取り残された。

家族でさえ死に別れてちりぢりに引き裂かれてしまったのだから、まして親しい友人や知人たちともばらばらになってしまった。この小説の題名「流星雨」とは、流れ星の雨のように、ひとびとがはらはらと散ってゆくさまを表しているのである。あきもひそかに思い慕っていた青年と、はなればなれになってしまった。

小説の後半は、あきと妹のかよに巡ってくる運命を中心に展開する。旧会津藩士でいまは維新政府に出仕して函館の開拓使事務所に勤めていた相賀という男の家に、あきは仕えることになる。仕えるといっても、ただの女中としてではない。半分は、子どものいない相賀夫妻の娘代わりのような役割だ。

相賀自身は榎本武揚とともに五稜郭にたてこもったほど維新新政府に敵対していたが、いまでは割り切ってその新政府のために働いている。しかし会津の人々が蒙った苦難のことは忘れずにいて、深く同情してもいる。そんな同情心から是非会津の娘を預かりたいと、斗南藩の責任者に申し出ていたところを、その責任者である大橋という男が、あきを見飲んで紹介した次第なのだった。

相賀に拾ってもらったことで、あきにも母と妹にも明るい未来が開けそうになった。妹のかよは相賀のはからいで、青森県庁の野田豁通のところで働くことになる。そのかたわら好きな勉強もできるようになり、母親も野田のはからいで旅館の女中頭として働けるようになった。野田豁通とは、柴五郎少年を引き取って、彼に這い上がるチャンスを与えてやった実在の人物だ。

この野田に限らず、津村さんは、実在の人物を方々で登場させている。あきとその家族自体はフィクションということになっているが、彼女らを取り巻く状況やそこに出てくる人物像はみなノンフィクションだ。だからこの小説は単なる想像の産物ではなく、歴史記録としても読ませるものを持っている。

しかし読者は、小説の最後の部分に至って、これがやはり想像の産物なのだと思い知らされる。最後の最後で、小説は急展開し、どんでんがえりの結末を迎えるのだ。

相賀はあきに縁談を紹介してくれた。ところがその相手というのが、こともあろうに旧薩摩藩士だというのだ。あきにとって薩摩の人間は親や兄弟の仇、彼らから受けた屈辱と苦悩は一生忘れられない。亡くなった祖父の儀右衛門も、「そなたたちが男であったなら、この無念はいつか必ず晴らしてくれと言いたいが、そらはかなわぬ望みなれば、生きぬいて子子孫孫まで、会津の忠誠と薩長はじめ新政府軍の数々の謀略と暴挙を伝えよ」といっていた。かよはともかく、母もきっと喜ばないに違いない。

あきは見合い相手の旧薩摩藩士を、人間として憎んだわけではなかった。ただ薩摩が憎かったのだ。それは、柴五郎にとっても同じことだった。彼も薩摩に対する怨念を生涯にわたって抱え続け、西郷が朝敵となった時には、積年の恨みを果さんと、西郷討伐に志願したほどであった。あきは女であるから、恨みを形にすることは叶い難いが、薩摩藩士と結婚するなど考えられもしないことだった。

しかし結局相賀の妻に説得されて折れることになった。相賀の妻自身も会津戦争で子どもたちをなくしたつらい経験を持っていた。だからあきの気持ちは痛いほどわかる。しかし恨みを抱いているだけでは前へは進めない。いまは過去の恨みを包んで未来に向きあうべきだ、そう説得されたのだ。また、母や妹の未来も心配だった。自分が前途有望な男と結婚すれば、母や妹たちの運命も上向くだろう。

山川浩の末妹の捨松が帰国後薩摩人大山巌から求婚された時、周囲の会津人はみな猛反対をしたという。その時捨松は自分の意思を貫いて大山と結婚した。あきの場合とは正反対だ。津村さんはそんなことも頭において、こうしたシーンをあえて書いたのであろう。

こうしていったんは結婚するつもりで、男がいる札幌にいったあきだが、最後の最後でまた気持ちが揺らいだ。これから婚儀というその最後の瞬間で、あきは後ろへと身を引き、建設中の札幌の町をあてもなくさまようのである。その部分を津村さんは次のように描写している。

「突然、あきは、自分を包む闇が激しく泡立つような感じがした。その奥底から潮騒に似た音が湧き、忽ちそれは夥しい人々の声になって耳を聾するように響いた。
「激しい怒号にまじって、嬰児や女の泣き叫ぶ声、怪我人のうめき声が聞える。
「あきは、耳を覆ってうずくまった。
「骸骨が皮をかぶっているような祖父の遺骸や、羽目板の隙間から吹き込んだ雪をかぶって冷たくなっていた祖母、肉体が腐って溶け、誰であるか肉親でも判別がつかぬ次兄の茂次郎、大きな門歯と、少し突き出た犬歯の残る父の上顎の骨などが見える。
「死相のあらわれているみほの心臓をしずが貫くと、しぶきのように噴き上げた鮮血が見える。必死の形相で赤子を助けてくれと差し出す血まみれの女が見える。
「そして、もっと多くの人々の無残な姿が見える。
「時代は変わった。確かに変わった。
「だが、あきは見てしまった。自分が見た情景をいつか忘れる日が来るだろうか。
「夜空いちめんにちらばる星が、一斉にあき目がけて降りかかってくるような気がした。」

津村さんはこの小説を執筆するに至った動機について、あとがきの中で書いている。

内藤ゆき(旧姓日向)という女性の「万年青」と題する手書きの小冊子のコピーを偶然読む機会があった。それは彼女の93年間の生涯にわたる回想録のようなものだったが、その中に会津戦争にかかわる事柄が6ページにわたってつづられていた。それが津村さんの創作意欲を刺激したというのだ。

津村さん自身、日本が敗戦を迎えた日には17歳の少女であった。だから、津村さんも、敗戦の民として塗炭の苦しみを味わったのであろう。その自分の苦しみが、内藤ゆきさんの苦しみと共振して、あきという女性のイメージに結びついた。筆者にはどうも、そんなふうにも受け取れた。


    

  
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