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日清戦争:清国ニ対スル宣戦ノ詔勅


日清戦争は明治27年(1894)8月1日に発せられた「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」を宣戦布告として、そこから始まったとする説が最も有力だが、異論もある。異論の主な理由は二つ。ひとつは7月25日の豊島沖海戦から日清間の戦争が実質的に始まっていたこと、もうひとつは、「詔勅」は日本国民に向けられたものであり、清国に対する戦線布告ではないとするものだ。

豊島沖海戦の中で高陞号撃沈事件というものが生じた。この船にイギリス人船員が乗っていたため、イギリス国内で反日感情が高まったが、イギリス側はこれを国際法に則った行為であると、日本側を擁護する姿勢を見せた。国際法上合法であるとは、日清間に既に戦争状態が成立していたことを前提にした議論であった。

日本がイギリス側の理屈を援用するためには、少なくとも7月25日には日清両国間で戦争状態が成立していたと言わなければならないが、それ以前に日本側が清国に正式な宣戦布告を行った形跡はない。これに対して、イギリスの国際法学者は、戦線布告の行為がなくても、戦争は成立するという見解を示した。

日本政府は、西洋列強に対して日清戦争の開始を知らせ、局外中立を要請することを目的として、7月末に「交戦通告書」を交付した。これ以降、日清間の戦争は国際的に認知されたということになる。

以上のような事態を踏まえ、8月1日に出されたのが「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」なのである。

「詔勅」は、冒頭の儀礼的な部分に続いて、宣戦の布告、宣戦布告の理由、理由の詳細という三つの部分からなっている。

まず、冒頭の部分は次の如き文章である。

「天佑ヲ保全シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス」

万世一系の皇祚を踐める大日本帝国の主権者としての天皇が忠実かつ武勇なる臣民に対して命令するという形式は、いうまでもなく成立したばかりの「大日本帝国憲法」の精神を踏まえたものである。

宣戦布告の本体に当たる部分の文章は次のとおりである。

「朕茲ニ淸國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ意ヲ體シ陸上ニ海面ニ淸國ニ對シテ交戰ノ事ニ從ヒ以テ國家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ苟モ國際法ニ戾ラサル限リ各〻權能ニ應シテ一切ノ手段ヲ盡スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ」

文意は「清国との間で戦争をするゆえ、陸上海上の戦いに勝ち抜き勝利をものにせよ、いやしくも国際法に反しない限度において、あらゆる手段方法を用いて戦え」というものである。すなわち天皇自ら臣民の勇気を掻き立てるという形になっている。

継いで宣戦布告の理由が述べられる。

「惟フニ朕カ即位以來茲ニ二十有餘年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外國ニ構フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列國ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ何ソ料ラム淸國ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ對シテ著著鄰交ニ戾リ信義ヲ失スルノ擧ニ出テムトハ」

前段では、日本は明治維新以後平和国家たらんと欲し、諸外国との友好に務めてきたことを述べ、後段では、そんな我が国の平和な姿勢を逆手にとり、清国は朝鮮事件を巡って信義に反したことをなした、それ故清国を懲らしめるために宣戦するのである、ということが述べられている。

前段で述べていることは、ある意味ではあたっている。というのも日清戦争が起こるまでの日本は、軍事小国であることをわきまえて、台湾出兵(1874年)のような事態を例外として、全体としては穏やかな対外協調政策をとっていた。

それが次第に好戦的になっていった背景には、国力の増大と言う事情もさることながら、南進するロシアへの警戒が働いていた。山県有朋などは、シベリア鉄道の敷設に重大な関心を示し、それが日本に対する深刻な軍事的脅威になることを憂えていたが、そうした空気が、朝鮮半島を日本の防御線として獲得しようとする誘因になった。つまり日清戦争は、朝鮮半島に対する覇権をめぐって、起こるべくして起きた戦争と言う性格をもっていたといえる。

後段でいっている朝鮮事件と言うのは、明治27年2月に始まる甲牛農民戦争《東学の乱》と、それをめぐる日清両国の武力介入を指す。

明治政府は、農民軍の蜂起に対して、居留民保護を理由に、日本軍の単独出兵も辞さない考えだったが、朝鮮政府が清国に援兵を要請すると、天津条約に規定された「行文知照」を根拠にして大規模な出兵に踏み切った。「行文知照」とは、日清いずれの国も、朝鮮に出兵するに当たっては、相手国に通知しなければならぬと定めたものであり、清国が出兵すれば日本も出兵できるという理屈の根拠づけになるものだった。

出兵後東学の乱が収まり、朝鮮情勢が一段落すると、日本政府は清国と共同して朝鮮の内政を改革するように呼びかけ、清国が拒否すれば日本が単独で改革指導すると通知した。これに対して清国は、内乱が既に収束したこと、朝鮮の内政は朝鮮自らが行うべきであること、清国が撤兵したのであるから、天津条約に従い日本も撤兵すべきとして、日本の申し出を拒否した。

清国の主張は国際法上至極まともな内容であったと言わざるを得ないが、日本政府はこれを、「鄰交ニ戾リ信義ヲ失スルノ擧」と決めつけ、宣戦布告の理由としたわけなのである。

以下、その理由が根拠を有することについて、最後の部分で詳細に述べる。

「朝鮮ハ帝國カ其ノ始ニ啓誘シテ列國ノ伍伴ニ就カシメタル獨立ノ一國タリ而シテ淸國ハ每ニ自ラ朝鮮ヲ以テ屬邦ト稱シ陰ニ陽ニ其ノ內政ニ干涉シ其ノ內亂アルニ於テ口ヲ屬邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ」

冒頭で朝鮮に対する日清両国の基本的な立場について論究する。日本は朝鮮の兄貴分として何かと朝鮮の世話をし、独立国としての体面を保つように指導してやった。それに対して清国は朝鮮を属国扱いして、朝鮮の内政に介入しては、ついに朝鮮に出兵するようなことまでした。

「朕ハ明治十五年ノ條約ニ依リ兵ヲ出シテ變ニ備ヘシメ更ニ朝鮮ヲシテ禍亂ヲ永遠ニ免レ治安ヲ將來ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ淸國ニ吿クルニ協同事ニ從ハムコトヲ以テシタルニ淸國ハ翻テ種々ノ辭抦ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ」

明治15年の条約(天津条約)の規定に従って、日本は清国と共に朝鮮に出兵したところである。しかして東学の乱が収まった後、今後における東洋の平和のために、日清両国が共同して朝鮮の内政を改革しようと申し出たが、清国はなんだかんだと理屈をつけてその申し出を拒否した。

「帝國ハ是ニ於テ朝鮮ニ勸ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ內ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ獨立國ノ權義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ淸國ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辭ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ吿クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更ニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要擊シ殆ト亡狀ヲ極メタリ」

日本は、朝鮮がその内政を改革し、また独立国として体面をたもてるように指導してきたところであり、朝鮮もそうした日本の指導に服しているにもかかわらず、清国は朝鮮の改革の努力を妨害するのみならず、水陸の兵を備えて、折あらば朝鮮征服の野望をとげんとしている。そして大兵力を朝鮮に進め、また我が艦隊を襲撃するなど横暴を極めている。

詔勅はこういって清国を厳しく糾弾しているが、内政の改革云々とは、7月23日の日朝戦争のことを言っていると考えられる。この戦争で、日本側は国王を虜にし、大院君による親政を実現した。日本はその大院君をして、清国の撤退を申し出るように働きかけていたのである。

「則チ淸國ノ計圖タル明ニ朝鮮國治安ノ責ヲシテ歸スル所アラサラシメ帝國カ率先シテ之ヲ諸獨立國ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ條約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝國ノ權利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク擔保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス」

清国の意図はあきらかだ。それは朝鮮の治安を不安に陥れ、朝鮮を一人前の国にしてやろうという日本の努力を無にし、もって東洋の平和をおびやかそうとするものだ。

詔勅はこういって、日本が清国に戦いを挑まざるを得なくなった次第を再確認して、宣戦布告の最終的な理由とするわけである。

「熟〻其ノ爲ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ實ニ始メヨリ平和ヲ犧牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝國ノ光榮ヲ中外ニ宣揚スルニ專ナリト雖亦公ニ戰ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠實勇武ニ倚賴シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝國ノ光榮ヲ全クセムコトヲ期ス」

この詔勅をよく読むと、かなり一方的でかつ乱暴な議論だという印象を与える。実際には、李鴻章は日本と一戦を構える気は毛頭なく、日清両国がともに兵を引くことを願っていた。しかし日本は何とかして清国と戦い、其れに打ち勝つことで、朝鮮に対する日本の覇権を確固としたものにしたかった。そういう思惑が働いたからこそ、かなり苦しい理由をたてても、清国との戦争に突入したかったということなのだろう。

日本のこうした理屈に対して、イギリスをはじめ列強は批判を加えなかった。一つには、日清戦争の開戦と並行して進んでいた条約改正問題がやっと決着し、日本が欧米から一流国家として認められるようになりつつあったということがあり、またひとつには、日清両国の戦争の結果いかんにかかわらず、欧米の列強は何ら失うところがなかったという事情もあった。

ともあれ、日清戦争がはじまると、日本国民は興奮の坩堝に陥っていった。あの福沢諭吉でさえ、次のように言って、この戦争に最大限の支持を示したのである。

「最早かくなるうえは、ただ進むの一方あるのみ。国民一般、すべて私を忘れ国に報ずるの時と存ぜられ、人事に淡泊なる老生にても、この度は黙々に忍びず、身分相応に力を尽くす覚悟にござ候」(8月8日付友人宛書簡)

(参考)原田敬一「日清・日露戦争」(岩波新書)




  
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