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小熊英二「社会を変えるには」


この本は、社会を変えるために一人ひとりが立ち上がるようにと勧めたものだ。何故社会を変えるのか。それは一人ひとりの問題意識によるだろう。そもそもそんな問題意識を持たない人もいる。そういう人にとっては、小熊のこの本はナンセンスであることを越えて、有害であるとさえ映るかもしれない。しかし、社会というものは、そんなものではない。これまでに変わらなかった社会というものはなかったし、これからもきっと変わっていくに違いない。そうであるとすれば、社会の変化を受け身で傍観するのではなく、自分自身がその変革にかかわることのほうが、色々な意味で望ましいのではないか。そういう問題意識にこの本は支えられているようである。

そんなわけだから、この本は社会変革のための実践アドバイスというような面を持っている。実際最終章は、そうした実践にとって何が大事かについて、縷々説明している。それを著者は社会変革のためのテキストブックのようなものだと言っている。しかしそうしたテキストブックが有効性を持つためには、社会変革の意義とか、そもそも変革すべき社会についての科学的な認識が必要となる。それ故この本は、前段で社会認識の基本と、社会変革の意義についてざっとおさらいをしたうえで、後段で社会変革に一人ひとりがどうかかわったらよいか、提言しているわけである。

小熊は社会学者だから、社会学のツールを用いて社会の分析をしている。その結果小倉が依拠するようになった前提は、現代の社会をポスト工業化社会と捉えることだ。ポスト工業化社会は、それ以前の社会と比較して決定的な相違がある。それを一言で言うと、再帰的な人間関係が支配する社会ということになる。従来の社会では、階級であったり、その他の集団であったり、個人はそうした集団の一員として捉えられていた。従って個人を動かす場合には、彼が属する集団の特性をわきまえたうえで、その集団の特性に応じた働きかけをするという考えが支配的だった。個人は極めて静的な存在として、捉えられたわけである。

これに対して再帰的な関係とは、個人がある集団に属するだけの単純で明確で静的な存在性格をもったものではなく、様々な関係を生きるダイナミックな存在性格を持つものだとされる。したがって、一個人を労働者としてしか見ない立場は有効性を持たない。たしかに彼は労働者かもしれないが、労働者としてばかりではなく、ある場合には消費者として、ある場合には地域のネットワークの担い手としてといった具合に、様々な人間関係の網の目の中で生きている。そうした網の目のような人間関係の中で、彼は他人との間で再帰的な関係を生きる。再帰的と言うのは、人間が相互に影響しあい、その影響の及ぼしあいを通じて成長していくようなあり方をさしている。

従来の社会運動論は、人間を一面的に見ていた。労働者なら労働者、経営者なら経営者、女性なら女性という具合に人間を分類し、どの人間もそうした類型のどれか一つに当てはまると考え、どの類型にもその類型特有の行動様式をいうものがあると考えていた。あらゆる個人はそうした類型のどれかにあてはまるのであるから、その類型の特徴が分かれば、それに属する個人の行動も予測できると考えたわけだ。

しかし再帰的な人間関係が支配するポスト工業化社会においては、そういう見方は有効性を失う。ではどのような見方をすればよいのか。その問いに答えるのがこの本の目的である。

こんな具合にこの本は、社会についての小熊なりのモデルを提示し、それにもとづいてどのような社会変革のあり方が可能なのかについて探ったものと言える。もとより小熊が提示したモデルはあくまでも小熊の考え出したもので、それがどれほどの有効性を持つかはまた別の問題ではあるが、そうしたモデルを提示することで、とかく無自覚になされがちな社会変革の実践にある方向性を示すという効用はあるようである。

ともかくこの本を読むと、社会変革には相当の理由があるし、また社会変革に向けての個人の努力には相応の必然性があるということが見えて来る。


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