日本語と日本文化


当世保守主義の戦後民主主義批判:小熊英二の戦後日本思想論


保守主義あるいは保守的な思想というものは、どの国のどの時代にもあるものである。少なくとも近代以降はそうであった。その基本的な特徴は、既存の秩序を脅かすものに対抗して、既存の秩序を守ろうとするところにある。保守主義の祖先と言われるバークは、フランス革命が既存の秩序を破壊して、世の中に混沌をもたらすことに対抗し、秩序と安定を主張したことはよく知られている。保守主義というのは、そのバークに体現されるような既存の秩序と安定を重視する立場なのである。

この尺度に照らし合わせると、日本の戦後の保守主義はちょっと違った特徴をもっていたというのが小熊の見立てである。日本でも、戦後間もない頃は、バーク的な意味合いでの保守主義が存在していた。それを小熊はオールド・リベラリズムといっているが、福田恒存に代表される戦後のオールド・リベラリズムというのは、大正時代までに形成されていた日本的な秩序と安定を重視し、それを破壊するものとしての軍部とか共産主義に対抗する立場をとっていた。

オールド・リベラリストたちは、自分の地位をゆるがす社会変動に批判的であったわけで、その点ではいわゆる保守主義の伝統的な概念に一致していた。吉田茂なども、「赤」と軍部に反感を抱く自由主義者=リベラリストだったのであり、彼にとって「赤」と軍部は無知な大衆を扇動して既存秩序を破壊し、それに安住していた彼らの地位を脅かす存在にほかならなかった。

これに対して、1990年代になって冷戦構造が終わると、新しいタイプの保守主義が日本に台頭してきた。その保守主義は、上に述べたオールド・リベラリズムとはかなり異なっており、保守主義というより、反動的なナショナリズムといってよいものだった。小熊もそうした動きを、保守主義という言葉ではなく右派思想という言葉で表現している。

1990年代以降の当世の右派思想を先導したのは、「新しい教科書を作る会」に結集した人々だ。小熊はその代表的な人物として西尾幹と佐伯敬思をあげ、さらにその周辺的な人物として西部邁をあげている。

「新しい教科書を作る会」の歴史教科書は、筆者も読んだことがあるが、その印象は非科学的な精神主義といったようなものだった。この教科書は、記紀に書かれていることは歴史的な事実であり、先の大戦は欧米列強からアジア諸国を開放するための正義の戦争だったと主張している。このような主張を吹き込まれて育った子どもは、痴愚蒙昧な大人になる可能性が高いと感じた筆者は、彼らの動きを国民愚昧化運動として受け取ったものだが、当の本人たちは、別に底意があるわけではなく、どうも大まじめに取り組んでいるらしいのである。

その彼らの姿勢について、大江健三郎が言っていることを、小熊は紹介している。「みんなナイーブな人たちですよ。どうしてこんな年齢になるまで、そのようにあり続けられるかと疑うくらいです」。大江のこの言葉は、彼自身がそうしたナーブな感情をかつて持っていて、それを克服したという経緯を踏まえているらしいから、言うことに迫力がある。とにかくこの人たちは大まじめに右派的な言説を主張しているわけである。

こうした当世の右派的言説を、小熊は佐伯啓思の次のような主張に代表させている。すなわち、戦後民主主義というのは国家を否定して個人から出発する。「戦後の日本の民主化はあくまでアメリカ的な言説、アメリカ的なものの考え方、アメリカ的な枠組みのなかでおこなわれていた・・・左翼は近代主義や進歩主義を前提にするから、左翼知識人は西欧に自らを特化する」。また、西尾幹二は、戦後知識人は、「共産主義は平和勢力だという信仰に侵されて現実をみうしなっていたのであり、戦後民主主義は大正時代の教養主義の姿を変えた新たな政治的無知の再来である」と主張している。

ここに見られるのは、強烈なナショナリズムであり、そのような見地から今の日本の対米従属も批判の対象となる。その点は、対米従属とナショナリズムを共存させている今の保守主義の勢力、それは日本会議に代表されるわけだが、そういう買弁的な保守主義よりはずっと純粋と言えるかもしれない。

しかしこういう見方が、事実の正確な認識を踏まえたものではなく、きわめて偏頗な見方だと小熊は批判する。彼らは自分たちの狭い個人的な体験を肥大化させて、戦後民主主義をトータルに否定するが、それはフェアなやり方ではないというわけである。実際西尾幹二などは、戦時中は左翼知識人が強調したほど暗い時代ではなかったのであり、その暗さを理由にして戦中の日本を悪く言うことは許されないと言っているが、そういう西尾自身、戦中の日本を多面的に認識出来ていないというわけである。

佐伯はまた、私生活重視の市民を批判して、国家に責任をもつ公民を賞賛している。そしてその公民の具体的な像として武士をあげ、武士的精神の再評価を訴える。武士的精神というのは融通無碍な言葉で、どんな酒でも盛り込める革袋のようなものだが、佐伯にとっては、今の日本を毒している無責任な個人主義への対抗概念ということになるのだろう。

ところで西部邁は小栗のこの本を評して、左翼思想家ばかりを積極的に取り上げて、保守思想家をないがしろにしているといった感想を述べていたが、それを読んだとき筆者は、これは自分のことがないがしろにされていることへの不満かと思ったものだ。たしかにこの本での西部の取り上げ方は、言い訳程度の簡単なものだし、それもポジティブなものではなく、どちらかといえば否定的な評価だ。しかしそれはある意味仕方が無いのではないか。西部らが主張したような保守ナショナリズムは、戦後の日本の思想的状況においては脇役にすぎなかったわけだし、それがやっと主役の端くれを演じるようになるのは1990年代以降のことである。90年代以降の保守思想といっても、一つにまとまっているわけではなく、日本会議のような対米従属を前提にしたものと、自立的ナショナリズムを主張するものとに別れている。しかもどちらも、伝統的な意味での保守主義ではなく、どちらかというと右翼反動主義とでも称すべきものである。こういうものを、一国の国民を部分的でも代表するものとみなし、それを積極的に評価するというのは、学問的な態度としてあまり褒められたものではない。

ところで佐伯に言わせれば左翼の牙城であるらしい朝日新聞が、最近は佐伯の為に紙面を提供して、言いたいことを言わせている。月に一度なので、筆者も軽い気持ちで目を通すことがあるが、正直言ってまともに読める代物ではない。こんなたわごとめいた言説にも紙面を提供する朝日新聞をどのように受けとめたらよいのか。筆者には苦笑する以外手はないといった感じだ。




  
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