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丸山真男と竹内好:小熊英二の戦後日本思想論


戦後の日本思想は敗戦への反省から始まった。それをリードしたのは丸山真男と竹内好だと小熊は言う。丸山は「無責任の体系」、竹内は「ドレイ根性」という言葉をキーワードに使って、戦前・戦中の日本の指導層や国民の意識のあり方に深くメスを入れ、何が日本の敗戦をもたらしたかを徹底的にえぐりだしたというわけである。

丸山と竹内は、事実認識や文章表現においてきわめて対照的なイメージを与えるが、共通するところもあると小熊は言う。その共通性は、彼らが戦争体験者だったということだ。丸山も竹内も従軍して、軍隊のなんたるかや戦争のすさまじさを肌で経験していた。その経験の共通性が彼らに共通の視点をもたらしたというわけだ。

二人とも戦争が始まった時にはすでに自分なりの思想を持っていた。丸山の場合には、欧米の近代人をモデルにした主体的な人間像というものであり、竹内の場合には中国文学の研究をもとに日本をアジアの一員として相対的に位置づける見方であった。いずれにしても、戦争体験世代として、日本を相対的に見る視点を持っていたわけだ。彼らが戦後に展開した思想は、そうした日本を相対化する視点から、日本がどのようにして国の方向を誤ったかということを追究したというのである。

そういう問題意識に基づいて、二人とも日本が戦争に負けたのは、「無責任の体系」といい、「ドレイ根性」といい、要するに主体的な人間像を日本人が確立できなかったことに基本的な要因があり、その結果日本は良い意味でのナショナリズムを形成することが出来なかった。そのため、負けるべくして負けたのであって、もしも日本がもうすこし国民としての一体感を持つことが出来ていたら、あんな悲惨な負け方はしなかっただろうと考えた。そこに彼らの共通点があるのだと小熊は強調する。

その一方で相違点も無論ある。それは近代のとらえ方だと小熊は言う。彼らの近代認識は京都学派とのかかわりに強く規定されていた。京都学派はいわゆる「近代の超克」を唱え、欧米流の近代主義にかわる日本独自のもの、それは簡単に言えば大アジア主義に落ち着くのだが、その独自の近代認識との関連で、二人とも自分の近代認識を磨き上げた。丸山の場合には、京都学派を批判して「近代」の再評価に向かったわけだが、竹内の場合には京都学派に依拠する形で日本の官僚文化の批判とアジアの中の日本というような視点を強化していった。

彼らのこうした姿勢は、後に丸山に対しては共産党に同調して近代主義を唱えたという批判をもたらし、竹内に対しては近代主義の批判者だとか大アジア主義者といった評価をもたらすことになる。「1960年代から70年代の若者たちのなかに、竹内好を『近代主義=戦後民主主義』を批判した民族主義者として再評価する動きがおこった。彼らにとって、丸山真男が日本共産党の『同伴者』であるのが自明なのと同じていどに、竹内が日本浪曼派や三島由紀夫と同列の存在であるのは自明のこととして映った」のである。

実際竹内の場合には、日米開戦を日本が欧米という強者に対して戦いを挑んだものとして、また東亜解放のスローガンが現実となって、日本の中国侵略というもうひとつの現実が帳消しになるかもしれないと期待したフシがある。

竹内の「どれい根性」論は、丸山の「無責任の体系」とほぼ同じような問題意識の上に立っている。日本人は近代人として自立していなかったが故に自ら責任をもってあたる自主性に欠けていた。それが無責任の体系となって結実した、そう丸山はいうわけだが、竹内はその無責任ぶりをドレイ根性として捉えた。ドレイ根性というのは、自らは全く主体性を持たず、外部の権威に身を任せる態度のことである。竹内は日本と中国とを対比させながら、日本人のドレイ根性を解説してみせる。

「中国は固有の文化を持つがゆえに、伝統が強力である。それゆえ、伝統と徹底的に戦い、それを否定することでしか、革新が生まれない・・・それに対し日本では、つねに完成品を西洋から輸入することで、近代化を行ってきた。それが可能であったのは、固有の文化と伝統をもたないため、自己否定を行わずとも近代化が可能であったからである・・・こうして日本では、自由主義が行きづまれば全体主義、全体主義で敗北すれば民主主義と、危機のたびに外国から思想を輸入することが期待される・・・そこから発生するのが、『新しい』ということと『正しい』ということが重なりあって表象されるような日本人の無意識の心理構造である・・・外の力を借りたからダラクしたのに、そのダラクを救うためにまた外の力を借りようとする。日本人のドレイ根性がどんなに深いかがわかる」

この論法は、丸山が「日本の思想」で展開してみせたのとほとんど同じ構造のものだ。

このように丸山と竹内に似ているところがあるのは、両者がほぼ同じような戦争体験をしているからだと小熊は考えているようである。もっとも二人は自分たちの個人的な戦争体験を語ることはほとんどなかった。二人ともそれをまともに思い出すのが苦痛だったかららしい。ただなんとなく伝わってくるのは、丸山が軍隊生活の非合理性を身を以て体験させられたことや、竹内が中国戦線で日本兵の野蛮さをいやというほど見せられたということである。

しかしそうした共通性を除けば、二人はかなり違っている。「二人の最大の相違は、思想内容とは別の、ある種の資質の違いにあった。丸山はバランス感覚と責任意識を重んじる政治学者だったが、竹内は内向的でロマンティックな文学者だった。たとえば丸山が『文学は行動である』とか『自己否定』といった言葉を使うとは、およそ考えにくい。逆に竹内は、『パンパン根性』を批判する文章などは書かなかった。また丸山なら、竹内と同じ事を主張するにしても、用語の定義をもっと厳密にして、『近代』という言葉を竹内ほど融通無碍には使わなかったと思われる」

ナショナリズムについての二人の姿勢にも相違がある。丸山は良い意味でのナショナリズムは評価したが、たとえば共産党が行ったように反米愛国をある種の排外主義に導くようなものは強く批判した。戦後の共産党は基本的には反米ナショナリズムの政党だったのである。これに対して竹内のほうは、やはり共産党とは一線を画していたが、基本的にはナショナリズムに無制約で共感するようなところがあった。それは先ほども触れたように、竹内が京都学派に共感していたことと深いつながりがあるのであろう。

戦後日本の思想界に影響を及ぼしたという点では、丸山のほうが大きな役割を果たした。しかし60年代後半以降になると、竹内のほうが高い評価を受けるようになった。その理由を小熊は、日本人の共産党嫌いが進んだことと、それと裏腹に戦後民主主義への懐疑が深まったことに求めている。

そんなこともあわせて、今日の竹内の評価は、戦中の大アジア主義や日本浪曼派を擁護し、丸山真男のような近代主義者を批判したというふうに受け取られている。つまり「竹内は民族主義者であり、太平洋戦争と日本浪曼派を擁護したのだというレッテルだけが残った」というわけである。一方丸山のほうは、今日になってますます高い評価を受けるようになったようである。というのも丸山が口を極めて言った「無責任の体系」とか「パンパン根性」といったものが、今日の日本でもまだほとんどそのまま生きているという事情があるからではないか。そんなふうに感じさせられる。

※ かつて池田勇人は、日本はアメリカの妾で結構だと自嘲気味にいったことがあるが、それは丸山の言った「パンパン根性」を政治的に表現した言葉だったと思う。だが池田はそう言いながら、アメリカに無理矢理はめられてばかりはいないというしたたかさも持っていた。ところが今の安倍晋三にはそうしたしたたかさもなく、ただひたすらアメリカに媚びを売るばかりである。情けないと言うほかはない。


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