日本語と日本文化


古代日本の婚姻と家族:母系社会と通い婚


古代日本における婚姻と家族のあり方が、近年まで支配的であった嫁取り婚、つまり女が男の家に嫁ぐといったあり方とはかなり様相を異にしていたことは、文献その他を通じて広く理解されるようになってきた。

古代日本における婚姻の基本は、男が女を見初めて女のもとに通う、あるいは女の家族が男を迎え入れるといったことを基調としていた。つまり女を中心として婚姻が成立していたのである。

男が女の下に通う通い婚の具体的な姿は、万葉集や日本霊異記に散見される。また男が女の家に同居する妻方居住婚の例も多く見られる。それに対して、女が男の家に住む夫方居住婚は、女の身分が男に比べ極端に低い場合など、例外的なケースだったと見られる。

このように女を中心にして婚姻関係が成立したのは、日本には先史時代から母系社会の伝統が根強く、その名残というか影響が、平安時代の中期ごろまで作用していたことの反映であると考えられる。

縄文、弥生時代を通じて、日本人は竪穴式の住居に住んでいた。縄文時代の竪穴住居はその規模からして3人ないし6人ぐらいが居住し、それらが数個集まって集落(部族集団)を作っていた。弥生時代には集落の規模はやや大きくなり、縄文時代の採集文化と違って稲作が中心とはなるが、集落の構造と機能は基本的に変わりなかったものと思われる。

この集落は、成員の生産や日常生活の拠点となっていた。集落の成員は独立した財産を持たず、集落に全面的に依存しながら生きていた。つまり今日思い浮かべるような家族的な単位は、ほとんど社会的な意味を持たなかったのである。

こうした社会にあっては、最小単位としての親族集団の中で、母親の果たす役割が圧倒的に強かったと思われる。集団の中では母親が中心となって共同体の活動にかかわった。財産というものがあるとすれば、それは母から娘に伝えられるのが普通だった。

こうした母系社会の伝統があって、それが古代を通じた日本人の婚姻のあり方に決定的な影響を及ぼしたと考えられるのである。

万葉集は古代末期の日本人の歌集であるが、そのなかには庶民の生活感情を歌った歌が多く含まれている。それらを読んでまず感じることは、男女の性愛が極めて自由なことである。女は気に入った男に対して極めてあけすけとものをいっている。男は気に入った女のもとに、しげしげと足を運ぶ。男女がはれて結ばれるに際して、最も影響力を及ぼすのは女方の母親の同意のようである。女はいつも母親の目を気にしながら男と会う、そんな光景が思い浮かんでくる。

万葉集には、両親を歌った歌が100首ばかりあるが、それらの殆どは母親を歌っており、父親だけを歌ったものは1首しかない。子の母親に対する情愛は現代にも通じるものがあるが、万葉集の世界においては、子は父と同居することがなくても、母親とは常に強い絆で結ばれていた。上の数字はそのことを反映しているのだともいえよう。

では、古代の男女はどのように結ばれたのか。他の未開社会における例では、母方の従兄弟との結婚が広く行われている(交差従兄弟婚)が、日本においてそのようなことがあったかどうかは実証されていない。

上層階級は別にして、庶民の間では遠方の地域との婚姻はそう盛んではなかったのではないか。部族集団の中か、せいぜい近隣地域との出会いが中心だったと考えられる。

上述したように、結婚生活は基本的には、男が女のもとに通う通い婚であった。そのほか男が女の家族と同居する場合や、夫婦が独立して住居を構えることも行われた。だが女が男の家族のもとに同居する例は殆どなかったようである。したがって、近年の社会問題たる嫁舅の関係は、古代には存在しなかったと考えてよい。

通い婚の場合、新婚早々には男は足しげく女のもとに通ったであろう。しかし女が妊娠したり、あるいは男に他の思い人ができたりして、その足が遠のきがちになることもあった。古代の女性の歌には、男の到来を待ちわびる女の歌がそれこそ数多くあるが、そんな文化を日本以外に求めることはできないだろう。

こうした場合、結婚は自然と解消され、女は他の男と再婚することもできたようだ。古代には、男の女に対する責任がきつく問われなかったかわりに、女のほうにも相応の自由が保障されていたのである。

女が比較的簡単に離婚を決意しえたのは、後の時代と異なって、女が経済的に男に従属していなかったからだと思われる。先史時代以来の共同体のあり方に守られて、女は男がいなくとも、何とか生きていくことができたのだと考えられる。

このように、男女の情愛だけが裏づけとなっているような結婚の形態を、「対偶婚」と呼ぶことができる。男女はそれぞれ身体一つで結びつき、愛情が途絶えれば配偶者を代えても非難されない。不安定ではあるが、男女平等の究極の姿であるかもしれない。

こうした女中心の婚姻や家族の形態が大きく変容するのは平安時代中期である。それには家の成立が深くかかわっている。古代的な共同体が解体され、その中から社会の基本単位として家というものが成立した。家は社会的・経済的な単位として国家機構の中に組み込まれ、課税の単位ともなった。

この新しい家にとっては、家を代表するものとしての戸主というものが登場し、家族の成員はその戸主の名の下に把握された。そこで新しく戸主となったものは男たちだったのである。

家の成立は上流層では10世紀ごろ、庶民層では12世紀ごろだとされている。家が社会の公的な構成単位となったからといって、すぐさま女が男に従属したわけではない。中世初期まで家の中での女の力はまだ根強く残っており、女にも独自の財産を持つことが許されていた。女房が亭主を相手に貸付をしたという記録も残っているほどである。

だが一旦成立した家は次第に機能の増殖をはじめ、ついには家の中の長たる男の権威が妻のそれを圧倒するようになる。女は経済的にも男に従属するようになり、婚姻の形態も自然と、女を男の家に迎える「嫁取り婚」へと変化していくのである。


    


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