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高床式建物:吉野ヶ里遺跡から


高床式の建物は弥生時代以降に現れたとするのが今日の通説である。登呂遺跡ではクラと称されるのがそれで、当初は穀物を収蔵するための施設として作られたらしい。それが次第に住居としても用いられるようになっていったのだろう。

高床式の建物がどのような構造だったのか、柱穴などの遺跡からだけでは見当がつかない。幸いに古代に作られた銅鐸や銅鏡にその有様が刻まれているので、それをもとに類推することができる。登呂遺跡の高床式建物などはそうした資料をもとに復元されたものだ。

弥生時代の高床式建物の研究に大きなインパクトを与えたのは、吉野ヶ里遺跡である。二重の環濠に囲まれた大規模集落の遺跡で、竪穴住居、高床式建物、祭祀施設、青銅器工房などが復元された。なかでも敵の侵入に対して設けられたと考えられる物見櫓は、かなり立派な高床建築だった可能性が高い。

高い建築物を建てるためには、長い木材とそれを強固に組み合わせる技術が必要だ。高床式建物の場合、まず建物を支えるための柱が四本ないし数本立てられ、それを上部で、梁や桁といった水平材で固定する。そしてその上に垂木を置いて屋根をかぶせるのが基本である。

竪穴式住居のような屋根が低くて単純な構造の建物なら、これで十分建物としての用を果たせる。しかし高床式建物のような高い建築物にあっては、これでは構造的に安定しない。そこで柱を、梁や桁だけではなく、足元でも固定して安定させなければならない。

通常は床にあたる平面と柱の交差する部分を結合させ、固定することによって、建物全体の安定化を図ったのだろう。だが吉野ヶ里遺跡の物見櫓の場合には、床面の下部が相当高い場所にあると考えられる。そこで柱の足元近くの部分にも、固定のための工夫が必要になる。

四本の柱を相互に固定しあう方法としては、長押とよばれるものを柱にかませるのが、もっとも単純な方法だ。長押とは柱の両側面に板をかませるやり方で、今日の木造建物にもよく用いられている。

ところが、弥生時代の建築遺構の研究が進むにつれて、長押のほかに貫と呼ばれるものが取り入れられていたことがわかってきた。貫とは柱に穴を開け、そこに水平材となる板を通す技術で、強度の点では長押より数段上だ。これまでこの技術は鎌倉時代の仏教建築に初めて登場したもので、弥生時代には存在しなかったと考えられてきた。それゆえ吉野ヶ里遺跡にこの技術が用いられていたことは、古代日本の建築技術の高さを示すものとして、大いに注目された。

現在吉野ヶ里遺跡に復元されている物見櫓をみると、足元がこの技術によって強固になっているため、非常に高い建物にかかわらず、安定度が高いように見える。(上の写真 Panoramio 参照)

垂直財としての柱と水平財としての梁や桁を組み合わせ、その上に屋根をかぶせるとともに、柱の下部には長押や貫の技術を施して安定性を強化する、これが日本建築の基本的な特徴であるが、すでに弥生時代において、その骨格となる技術が完成していたわけだ。


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