日本語と日本文化


式三献:日本型宴会儀礼の原点


現代日本人の間で行われている宴会は、主催者の挨拶と主賓の礼辞に始まり、乾杯を経て酒宴があり、最後は手締めで散会となる。酒宴の合間には時に応じて芸者の芸や、参会者の下手な余興が披露されて、参加する者たちの退屈を紛らわしたりするものだ。

このように、宴会には一定の型があるものだが、古代においては現代以上に厳密な型が定められていた。平安時代においては、大きく分けて、導入部としての酒礼とよばれるもの、食事にあたる饗膳とよばれるもの、そして宴会本体としての酒宴からなっていた。酒礼は今日でいう乾杯にあたるものだが、そのやりかたを式三献といった。われわれはとかく、乾杯は西洋の影響だと考えがちだが、それ以前に式三献というものがあって、その伝統の上にたって今日の宴会の導入を形付けているといえるのである。

饗膳の様子を記録したものとしては、男色家で知られる院政時代の貴族藤原頼長の日記「台記」がある。頼長は保延二年(1136)に内大臣に任命されたが、それを披露するために大饗を催した。その際の様子を比較的詳細に、日記に記録しているのである。

まずお祝いに参じた公家たちが各々座を占めると、その前に机が立てられる。机は二尺半ほどの細長いものを、二つあるいは四つ組み合わせ、客の身分に応じて、赤と黒とに塗り分けられていた。その上に折敷に載せた肴が運ばれる。頼長自身は「源氏座」という主人の席に着き、まず自分が杯をとった後に、客のうち身分の高いものから順次回し飲みする。これを流巡といった。流れの杯という意味であろう。

二順目では、主人の頼長は杯をとらず、客の間で順次回し飲みされる。三順目で頼長は再び杯を取っているが、これには議論もあったようで、頼長はそのことについて弁解している。ともあれ、以上三回にわたる回し飲みを総称して式三献といったのである。

三順目すなわち三献がすむと、饗膳に移る。このとき杯は式三献に用いられたものとは別のものに取り替えられるのが例であったようだが、台記はそのことについては触れていない。多くの場合、漆器から土器に変えられたようだ。

ここで興味深いのは、参加者たちが一つの杯を共有していることである。今日のように、各々が自分用の杯で飲むということはなく、一つの杯を順次回しながら飲んでいる。これは恐らく古代から伝わる神人共食の思想に基づいた直会の風習が息づいていたことの表れだと思われる。直会では、神の威力をたたえた杯を、参加者が順次まわし飲むことによって、共通の恩恵にあずかろうとする思想が働いていた。こうした飲み方は、近世まで廃れなかったようなのである。

式三献においては、一献から三献まで、各々異なった料理が運ばれた。それらは、それぞれに汁と三ないし五の比較的あっさりとした菜からなっていたようだ。式三献に続く饗膳では、飯をはじめ本格的な料理が出され、饗膳の後の酒宴でも、料理と酒が引き続き出された。このような献立が洗練されて、やがて本膳料理の完成へとつながっていったのだろう。

式三献は、日本の宴会の原点をなすものであり、後世まで色々な形で伝わった。任侠の間で行われる固めの杯や、今日の結婚式に残っている三々九度の杯などはその名残だと考えられる。また我々が友人同士の楽しい席で行っている乾杯にも、つきあいの義理で行なっているつまらぬ乾杯の儀式にも、式三献の名残は認められるのである。


    


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