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天皇の火葬


宮内庁によれば、歴代の天皇のうち火葬せられたものは41人、つまり122人の天皇のうち約三分の一にあたるそうである。その最初のものは持統天皇である。持統天皇は西暦700年に僧道昭を日本の歴史上初めて火葬せしめているが、御自身もその二年後に崩御するにあたり、火葬せらるることを強く望んだのだといわれる。

持統天皇が火葬を望んだことの背景には、無論仏教信仰の深化がある。仏教は既にそれ以前(用明、推古の頃)から盛んではあったが、葬礼に仏式が取り入れられるまでには至っていなかった。仏教の興隆者として知られる天武天皇の場合には、僧侶たちが天皇の葬儀に深くかかわったことが知られているが、遺体の処理は古来伝統の殯の儀式によっていた。それを天武の妻であった持統天皇が、初めて自らの遺体を、荼毘に付せしめたわけである。

持統天皇以後、文武、元明、元正と四代にわたって火葬が行われたが、聖武天皇以降はもとの伝統的な土葬が復活した。火葬が再開されたのは、西暦1011年、一条天皇の遺体を荼毘に付して、その遺骨を円城寺に安置したのが最初で、西暦1107年には堀河天皇が火葬され、その遺骨が香隆寺に安置された。以後歴代天皇の多くが火葬されるようになった。

天皇家の火葬と深い関連がある寺として京都東山の泉湧寺がある。空海が創建したという真言宗の寺であるが、承久の乱の後に即位した四条天皇が12歳で夭折した折(西暦1242年)に、諸宗の寺院が幕府をはばかって葬儀を辞退したなかで、泉湧寺が一人引き受けて天皇を荼毘に付し、寺内に御陵を作った。これが縁となって、以後泉湧寺は天皇家の菩提寺として、多くの天皇の葬儀を取り仕切ってきた。明治天皇の父君孝明天皇も、この寺で葬礼が行われた。

しかし、西暦1654年に崩御した後光明天皇の葬儀の時に、火葬が排せられて土葬に戻った。ところが不思議なことに、遺体をそのまま土葬するのではなく、いったん火葬したうえで土葬するという手の込んだ方法をとったものらしい。したがって、一定期間遺体を保存して、殯の儀を執り行うという古来の伝統からは、多少外れていたようなのである。

完璧な土葬が大々的に復活するのは明治天皇の時で、それ以来、大正、昭和両天皇も土葬の儀によっている。

明治天皇の大葬に土葬を復活させたのは、天皇家の意思と言うより、明治藩閥政府の強い意志に基づいたものだった。その背景には、仏教を弾圧して神道を国教にしようとする廃仏毀釈の思想があった。

孝明天皇の場合にも、仏式を拝して伝統の殯を復活させようとする動きはあったらしいが、天皇家の仏教信仰には根強いものがあったため、従来の令に従って、仏式による埋葬が行われた。すなわちいったん遺体を火葬したうえで、土葬するという例の手の込んだやり方である。

(以上は、限られた材料に基づいて、メモとして書いたもので、子細については修正の余地がある)


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